広島の左翼教師には
天罰が下るだろう
土下座するのは生徒じゃなく教師だろ
卒業式の「日の丸・君が代」問題を苦に校長が自殺した
広島県立世羅高校が毎年、生徒を修学旅行で韓国に送り
ソウル市内にある独立運動記念公園で謝罪文を朗読するなど
“謝罪行事”をしていたことが明らかになった。
石川校長の自殺の経緯について、広島県教育委員会は12ペー
ジにわたる調査報告書を公表した。そこでは平成10年4月に石
川校長が世羅高校に着任して以降の教職員組合とのやりとりが報
告されている。
それによれば、石川校長は前任校で、ある教師を教頭に推薦す
るに際し、同校の組合分会の了解を得なかった。世羅高校では着
任早々この件を追及され、反省文を書くように求められた。
その中で「まず、前任校の教職員に対して謝罪する」「97年
度人事における人事推進の反省のもとに、今後このようなことが
ないよう本校における人事推進は協定書に反しないように進めて
いく」などと石川校長は書かされたのである。[2]
民間企業でたとえれば、社長が部長を任命するのに、組合の了
解を得なかったからといって、反省文を書かされたということだ。
まさに世の中の常識外のことが行われていた。
広島県の高等学校長協会の岸本學会長(広島国泰寺高校長)は
3月10日、石川校長の自殺に至る経緯について、次のように参
院予算委員会で証言した。[3]
平成10年12月17日、文部省からの指導のもと、県教育委
員会は、入学式、卒業式で、国旗掲揚・国歌斉唱を実施すべきと
の通達を各校長に出した。
広島県教職員組合(広教組)に、部落解放同盟広島連合会(*)
も荷担して、通達を撤回させるという方向で闘争することを決定
した。(*以下、解放同盟と略す。ただし、岸元会長はこの広島
連合会は、他の都道府県の部落解放同盟や中央本部とは違った動
きをしており、峻別すべきと注意している。)
解放同盟は、2月11日、福山地区の校長18名を解放会館に
呼び、組合も含め、約100人に及ぶ「大衆団交」を行った。
卒業式での君が代の実施は従来行ってきた同和教育と矛盾する
との要望書を校長会として県教育委員会に出せと言われ、「検討
させてください」、「今ここで書け」と、いうやりとりの後、要
望書を出す結果となった。
引き続き、十三日にも石川先生がおられた尾道、三原地区
の校長たちもさっきのような百人規模の交渉を受け、要望書
を県教育委員会に提出しました。
さらに、国歌斉唱を予定している個々の学校にも卒業式が
近づくにつれて部落解放同盟広島県連の方がおいでになって、
我々の子供たちを当日欠席させるぞとか、卒業式途中で退席
させるぞとか言われ、そうすると退席すればこの子が部落の
子であるということがはっきり明確になってしまう、そのこ
とによって新たな差別事件が起きたら許さぬぞ、こういうふ
うな国歌斉唱実施を妨害するような行為がありました。
この証言に、矢野哲朗議員が「なぜ、学校部外の団体が介入し
て学校の運営を左右することができるんですか」と聞くと、岸元
会長は、昭和60年に作成された県知事、県議会議長、県教育長、
教職員組合など、八者による懇談会合意文書を指摘した。
この八者に解放同盟が入っており、さらに合意には「差別事件
の解決に当たっては、関係団体とも連携し」という文言が入って
いた。この「連携」という言葉がひとり歩きして、卒業式の持ち
方についてまでも解放同盟の介入を許す結果となった、と言う。
2月24日、辰野教育長が、学習指導要領に基づいて卒業式を
行うよう、県立校長会で職務命令を出す。これについて岸元会長
は語る。
教職員を説得する材料として、私ども校長の方から教育委
員会へ職務命令を出してもらえないかという心待ちの気持ち
があったという事実をここに報告させていただきます。そし
て、その効力は結構あったというふうに私は受けとめており
ます。
翌25日には、尾三地区校長会の副会長として、会長の東風上
校長ら3人とともに、組合、および解放同盟の代表14,5人に
呼び出しを受け、「(通達に)抗議しろ、辰野教育長、岸元会長
に抗議文を出せ」。校長会「それはできない」というやりとりが、
約2時間続き、結局物別れに終わる。散会後、石川校長は、東風
上校長に電話して、「これから学校に戻って職員会議なんだが、
行きとうないなあ」ともらす。
午後4時30分から、約5時間もの職員会議。石川校長は、国
旗・国歌の実施を依頼するが、組合は強硬だった。校長は東風上
校長に「君が代を歌うなら、国旗はおろすと言われた。全部非協
力的。駅伝の送り迎えもしないと言われた。国歌を歌うのはあき
らめた」と伝えている。駅伝は世羅高校の伝統。送り迎えを断ら
れたら、それがつぶされてしまう。
26日午後8時から9時40分まで、組合幹部のもとに連れて
行かれ、「君が代斉唱を実施するなら、同和地区生徒を欠席させ
たりして、卒業式そのものを妨害する」などと恫喝され、国歌斉
唱見送りを約束させられた。
27日、東風上校長から、「尾三地区の他の学校では国旗・国
歌がやれるようになった」と電話で聞き、午後8時30分、組合
に対して、再度、職員会議で話し合いたいと申し入れたが、「も
う25日にやらないと決めたから、28日の職員会議はやらな
い」と拒絶される。
その夜、東風上校長が電話しても、石川校長は出ず、心配して
翌28日朝、県教育事務所の指導主事に訪ねてもらうと、「疲れ
た、職員会議も開かれない。もうだめだよ」と漏らした。石川校
長が首をつったのは、この直後である
学校行事の決定は、本来校長の職務権限であり、職員会議はそ
れを補佐する諮問機関である。その職員会議が、校長の権限を奪
い、なおかつ、校長が要望しても、話し合いの場を持つことすら
拒否する。石川校長が遺書に「自分の選ぶ道がどこにもない」と
まで追い詰められたのは、こういう状況なのである。
石川校長の夫人は、「人権を讃える人たちに主人の人権は奪わ
れました。許すことはできません」と、葬儀に参列した県議会議
員に語っている
岸元会長のもとに、証言の後、組合からの大量の抗議電報が届
く。石川校長を自殺に追い込んだ世羅高校からも、「教育者とし
ての良心はないですね。教育界から出ていってください」という
電報が来て、岸元氏は「(教職員組合は)全く反省の色も見えな
い。私は、世羅高校の先生方に失望せざるを得ません」と語った。
石川校長の遺書を紹介した亀井郁夫議員は、8月2日に行われ
た参院国旗国歌特別委員会で、「いまだに石川校長が職場をとも
にした世羅高校の先生が、線香を一本もあげていない」事を紹介
した。
「人間としてこんなことが許されるのか。一人くらい線香をあげ
る人がいてもいいと思うが、ゼロということに驚いた」と慨嘆。
さらに、「数十人の世羅高校の先生が完全にマインドコントロー
ルされているのか、あるいは何かが怖くて参ることができないの
か。何が怖いか。解放同盟であり、教職員組合だろう。」と述べ
た
「恐怖の支配」のもとで、「法令規則を逸脱しても構わない」と
する広島教育界の無法ぶりがその後、次々と明らかにされた。簡
単に列挙すると、
・ 生徒に授業中、中国ブロックテストを受けさせ、一人130
0円から1800円を業者に払わせる。この業者の役員に教
職員組合の現役教師が無許可で就任していた。また問題作成、
採点を教師が行って謝礼を受け、受験料の約15%は、学校
がバックマージンとして受け取っていた。[8,9]
・ 高校などの主任には、年間5千万円の手当てが支出されてい
るが、そのほとんどが組合活動の財源として吸い上げられて
いる。手当ての拠出に同意しない教師は、主任にさせない、
という反対闘争を行っている。[7,p272]
・ 福山市内には28の解放会館、教育集会所があり、ここで解
放同盟に入っている親の子供たちを対象に、教師が出張して
勉強を見てやっている。市は一回あたり1800円の謝礼を
出し、費用は総額年間6千万を超える。なぜ地区の子供だけ
特別扱いするのか、「逆差別」との批判が出ている。[7,p183]
広島県立世羅高校
あとで聞いた話だが、私が中退して、自衛隊の少年工科学校に行ったものだから、石川先生は同僚の先生から「なぜ自衛隊に行かせた」と、吊るし上げを食ったという。教え子を再び戦場に送るなというのが、広島県日教組の重要な活動方針だったからだ。しかし石川先生は同僚の吊るし上げに我慢をして、私の立場を説明し擁護してくれたという。私は少年工科学校時代に石川先生と交わした手紙(要旨)を、自衛隊を辞めて数年後の、二十数年前の「軍事民論(当時の社会党系軍事専門誌)」に頼まれて掲載している。
石川先生は私にとって最高の教育者であった。世羅高校を中退し、少年工科学校に入学してから、私は一度も石川先生と会ったことはない。しかし世羅高校の同級生を通じて、石川先生の消息は詳しく聞いていた。石川先生も私のことをいつまでも気にしていたという
広島県立世羅高校の石川敏浩校長(当時58)が、県
教職員組合から卒業式における国旗・国歌の実施に激しく反対され、平成11年2月28日
に自殺したことだろう
卒業式の「日の丸・君が代」問題を苦に校長が自殺した広島県立世羅高校が毎年、生徒を修学旅行で韓国に送り、ソウル市内にある独立運動記念公園で謝罪文を朗読するなど“謝罪行事”をしていたことが明らかになった。五日付の韓国日報が社会面トップ記事で伝えたもので、記事には、生徒たちが市民の前でひざを折り、頭を垂れている写真が添えられ、案内を担当した年配の韓国人通訳の「生徒たちのまじめな表情に感動した」という感想も紹介されている。
韓国日報は県立世羅高校の生徒たちが三・一独立運動記念塔前で謝罪した、と報じた=平成10年10月16日、ソウルのタップコル公園(韓国日報提供)
韓国日報は「“キミガヨ”で悩みの校長の教え子たち」「5年前からタップコル公園で“謝罪の参拝”」という見出しで、昨年十月十六日の様子を詳しく報じている。
それによると、「世羅高校の男女生徒約二百人は昨年十月十六日午後四時、タップコル公園の三・一(独立)運動記念塔前でひざを折って座り、日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章を朗読した。一部生徒はハングル(韓国の固有文字)を学び、謝罪とともに両国の和解を訴えるプラカードを日本で作って持ってきた」という。さらに「公園での謝罪儀礼は犠牲者に対する黙とうと班長のあいさつ、謝罪文朗読、日本から持ってきた平和を望む折りづる献呈、公園内の史跡訪問などとなっていた」としている。
タップコル公園はソウルの中心街にあり、これまではパゴダ公園といわれた。日本統治時代初期の一九一九(大正八)年三月一日、大規模な抗日独立運動のスタートになったところで、記念塔などの施設があり、市民の憩いの場になっている。
世羅高校修学旅行団を案内した劉載晃氏(七九)は記事の中で「これまで五年間、“謝罪修学旅行”を許可してきた校長先生が、日帝軍国主義の象徴である日章旗掲揚や君が代斉唱に反対する教師たちと教育委員会の間で悩んだ末に自殺を選んだのだろう」と語っている。