「OBだけでなく現役の幹部が関わっているようだ」
日本の国防を担う防衛省が揺れている。理由はロシアへの情報漏洩。ロシアスパイを追いかける警視庁公安部は近く、漏洩に関わった7人を書類送検する方針だ。冷戦期さながらと思わせる今回の事件。当初は直接情報を漏洩した幹部OBとロシア大使館の元駐在武官を中心に立件する予定だった。ところが、幹部OBが元駐在武官に渡したブツを自衛隊駐屯地内から持ち出した中に現役の陸将がいたことがわかり、防衛省はあわてふためているというのだ。その実態に迫る。
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2013年5月某日の夜のことだった。場所は学生で賑わう東京・高田馬場駅近く。その一角にあるロシア料理店で、2人の男が向き合っていた。1人は少し老いたとはいえ鍛え上げられた屈強な体をした防衛省OBのI。Iは現役時代、ある関東方面のトップを務め、陸将まで上り詰めた。陸海空自衛隊の初となる多国籍軍との共同軍事演習に参加するなど、数々の輝かしい実績を持つ人物だ。
もう1人は豊かな口髭をたくわえ、青い目をしたロシア人のK。2人は周囲を一定程度、気にする様子も見られたが、酒が入った影響もあり楽しい時間を過ごしていた。2人のやりとりの様子からすると、関係は対等ではない。KがIに師事するような態度だ。この日は何事かの約束をして2人はそれぞれの家路についた。それから約1週間後、都内の超一流ホテルで2人再会した。おもむろにIが文書を取りだす。文書は400ページ以上もあろうかというものだった。文書に加えてIは自分が愛用していた電化製品もKに贈り、Kは笑顔でそれらを受け取ったのだった。
Iは後ろ暗い気持ちはあったものの、機密指定がかかっているようなものではないと開き直っていたのかもしれない。むしろ自分を師のように仰いでくれたKの帰国の手土産にでもなればという思いのほうが勝っていたようだ。大勢の人が行き交うホテルで行われた出来事であり、誰も2人の行為に気が付かなかったのか。
しかし、2人の行動を凝視していたあるチームがいた。警視庁公安部外事一課、いわゆるロシアスパイハンターの面々だった。ここから今回の警察対防衛省という一代攻防が幕を開けたのだった。
教範はどこから持ちだされたのか?
渡した文書は普通科部隊、つまり歩兵部隊の戦術などが書かれた教範。防衛省によると、駐屯地内の書店で販売されているが、外部に持ち出すことは禁じられている。特定秘密や防衛省の機密指定にあたるものではないという。ただし、この教範の中には、アメリカ軍との連携など戦術の機微に触れられている部分もあり、純粋に自衛隊の戦術についてのみ記載されたものとは言い難い。
Iは教範をKに渡した時点では、すでに防衛省を退職しており、直接入手できる立場にはなかった。では、誰がIのもとに教範を届けたのだろうか。先にも触れたが、Iは関東方面のトップにまで上り詰めた幹部自衛官である。長い自衛隊人生の中で多くの部下を持った。Iは豪快な性格で、自衛隊内では「軍神」という異名で呼ばれていた。豪快な性格に加えて、部下を半ば暴力的に従わせる一面もあったとのことで、Iに「忠誠」を誓った人物もさぞかし多かったろうと推察される。
Kに手渡された教範は1冊だったが、Iの手元には今も3冊が残っているとされる。つまり、持ち出し禁止のはずの教範が合計4冊、外部に漏れてしまったというのだ。 ある1冊は現役の自衛官からIの元腹心だったOBに手渡され、またある1冊は別のOBが駐屯地内の売店で購入し、またまた別の1冊はIと男女関係が噂される女性現役自衛官が駐屯地の図書館から持ち出し、最終的にIのもとに集まったという。この女性現役自衛官に至っては、Iに対し「取り扱いには注意してね」とメールで釘をさしていたのだ。
あまりにゆるすぎる… 自衛官の情報管理意識
そして、最も問題なのが現役の自衛官で、しかも陸将という高位にある幹部自衛官からIに渡った教範だった。外事一課はこの陸将からIが入手した教範がKに渡ったと見ているのだが、いくら特定秘密や極秘ではないしろものとはいえ、日本の国防を預かる自衛隊の、しかも幹部自衛官がいとも簡単に持ち出し禁止のブツを外部に出すとは…。驚きを通り越して、これで国防は大丈夫なのかとあきれてしまう。
Iの事情聴取が今年上旬にあった際に、ある捜査関係者は「IとKを立件することが対ロシアへの牽制になるのであり、防衛省・自衛隊の問題にはしたくない」と漏らしていた。しかし、Iの携帯電話などを調べていくうちに、自衛官のあまりにもゆるすぎる情報管理を目の当たりにし、「関係者はすべて書類送検する」(別の捜査関係者)ことになったという。
これには、防衛省側も驚きを隠せないようだ。当初、ある防衛省関係者が「持ち出し禁止といっても、極秘でもなんでもない文書。一部は黒塗りになるが情報開示を請求されれば公開されるもの」と語っていたように、立件は難しいと高をくくっていたふしがある。仮に、IとKが立件されたとしてもOBがやったこととして済ませてしまおうという雰囲気もあったという。ところが、捜査の大詰めで現役陸将の関与が明らかになり、警察に軍配が上がる形勢だ。余談ではあるが、防衛省・自衛隊の管理の甘さとして、この教範がインターネットのアマゾンで販売されていたことも付け加えておく。
ロシアスパイKはあの“ゾルゲ事件”と同じGRU所属
ゾルゲ事件のリヒャルド・ゾルゲをはじめとして旧ソ連を含めたロシアによるスパイ活動はつとに有名だ。近いところでは、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の武官が家庭の事情を抱えていた海上自衛官につけ入って、秘密指定文書などを入手していた事件があった。
今回、教範を受け取ったKもGRUに所属していたと見られる。KはIから教範を受け取った直後に帰国しているが、今回の日本勤務は3度目だったという。Kは今回以外にも、横須賀の海上自衛隊の基地を何度も訪問したり、ある駐屯地近くの居酒屋で居合わせた自衛官と名刺交換したりするなど、不審な行動がたびたび確認されている。Kは2008年にIがトップを務めていた関東方面の駐屯地を訪問し、これをきっかけにIの知遇を得たという。その後の2012年にロシア大使館のレセプションで2人は再会し、KはIに「教えを請いたい」との態度で接し、Iも籠絡されてしまったようだ。
警視庁のスパイハンターたちがカバーで入国してきたロシア諜報員を“監視”“追尾”していることは公然の秘密である。情報部門にいたこともあるIほどの大物が、なぜ簡単に応じてしまったのか。ある防衛省関係者は次のように指摘する。「Iは渡したことは認めているが、『その程度のものを渡して何が悪いんだ』という態度でいるようだ。兄弟も自衛官になるなど“軍人”としてのプライドが高く、逆におだてられてその気になってしまったのかもしれない」。
この指摘があたっているとしたら、本当にお粗末である。「その程度の情報も取ることができないのですか」とは、ゾルゲが相手から情報を入手するためによく使った常套句だったという。
今回の事件で、Iは再就職先だった大手自動車メーカーの顧問を辞め、防衛省もその内部ガバナンスが大きく問われることになるだろう。それにもまして、安保法制により海外派遣が可能になった防衛省がこの程度の情報管理で国民を守り、諸外国から信頼を得られると思えるだろうか。中国が人工島造成を進める南シナ海へ自衛隊を派遣すべきだという勇ましい意見もあるが、今回の行為はその中国に部隊編成や装備の機能を漏らすようなものだ。
書類送検はされるものの、「起訴までは難しい」(捜査幹部)というように刑事処分は軽微なもので終わる可能性が高い。それでも、防衛省・自衛隊には自分たちの職務に鑑み、今回の件を重く受け止めてもらいたいものだ。