本来、仕事は人生の一部分のはずだ。しかし、効率主義や成果主義、顧客至上主義が広がる中で、長時間労働やサービス残業がはびこり、何かが狂ってしまう。人生自体が仕事に搾取され、追い詰められて一線を越えてしまったり、人間らしさがなくなってしまったり、人生設計が狂ったり、という人もいる。
そこまで人生をかけても、右肩上がりの時代とは違い、報酬は増えず、成果も必ずしも上がらない。そんな中、働く人の疲弊ばかりが増幅している。産業医の阿部眞雄さんは著書『快適職場のつくり方』の中で、労働者の全人生や全人格を業務に投入する働き方を「全人格労働」と呼んだ。阿部さんは言う。
「労働者は生活する人間です。それを夢ややりがいといった言葉や、『昨年よりも成績を上げる』『与えられた仕事を全うする』といった道徳的標語などで過重労働に追い込んでしまう。その結果、うつ病などメンタルヘルス不調が増えています」
厳しいノルマや激しい競争からくるプレッシャーは正しい判断力をも奪う。
西日本の地方都市に住む30代の女性は、20代後半で大手食品メーカーの契約社員になった。幼い子ども3人を育てながらの共働きだった。
仕事は営業職。自社の商品を置いてもらうよう取引先のスーパーに売り込み、自ら陳列することもある。地域の相場と比べて給与がいいところに引かれて応募したものの、実は残業代はつかない。多いときは70店舗を担当し、休日出勤も当たり前。夜11時の閉店時間ぎりぎりまで商品を積むこともあった。
クリスマスなどのイベントシーズンや、新商品発売時期になると、自社商品をどれだけ店舗に並べてもらえるかが勝負。他メーカーは金銭的な取引や年間契約など、違法または違法すれすれの提案をしかけてくる。
そんなある日。あるスーパーの男性担当者とバックヤードの部屋で2人きりになった。他社が積極的に働きかけをしてきているという話をした後、
「あんたはどうするんだ」
担当者は顔を近づけて、キスを迫ってきた。機嫌を損ねたらうちの商品を扱ってもらえなくなるかもしれない――。
頭に、夫や子どもの顔が浮かんだが、すぐに「なんでお前は注文をもらえないんだ」と責める上司の顔にかき消され、目をつぶってしまった。
支店にいる女性は自分だけ。誰にも相談できずに泣き寝入りするしかなかった。そうするうちに担当者のセクハラはさらにエスカレートし、「枕営業」を強要された。機嫌を損ねないようにやんわり断っていたが、ある日、強引にホテルへ連れ込まれ、関係を持った。
夜、布団に入っても眠れなくなった。昼間に強い眠気に襲われ、営業車を運転するのが怖い。あの担当者が勤めるスーパーの看板を見るだけで、過呼吸が起きる。営業車の中で抗不安剤を飲んで心を落ち着けた。
心療内科医からは入院を勧められたが、70店舗もある取引先を放り出せないし、子どももいるので踏み切れなかった。
急に物忘れがひどくなった。今思うと、うつ症状の一つだ。家では家事ができなくなり、仕事では社内会議の予定をすっかり忘れて外回りに出たり、営業先のスーパーから注文をもらったのに発注を忘れて怒鳴られたり。定期面談で上司に言われた。
「あなたの代わりはいくらでもいるんだから」
それは「契約を更新しない」という意味だった。入社して7年。自分を犠牲にして働いてきたのに、何だったのかと思った。
「私は会社にとって捨て駒だったんだ」
ようやく目が覚めた。そのまま1カ月入院した。退院と同時に、夫から離婚を切り出された。仕事からの帰りが遅かったり、服にたばこのにおいがついていたりしたことがずっと嫌だったという。
「今、冷静に振り返れば、仕事のために枕営業までするなんて……と思えますけど、夫に知られて家庭が破綻するのが怖くて誰にも相談できないうちに、そうするしかなくなってしまった」
※AERA 2016年2月15日号より抜粋