「給料は上がる一方で、先の心配はしてなかった」
小沢さん夫妻は、都内郊外の駅から徒歩7〜8分ほどの6階建てマンションの3LDKに住んでいた。清さんと恭子さんは20代で結婚して子どもが生まれ、35年ローンで約4000万円のマンションを購入し、以来、この部屋で暮らしてきた。決して広くないが、きれいに整頓されたリビングには、食卓テーブルとソファやテレビがあり、ごくごくありふれた中流家庭の自宅のように見えた。
清さんは高校を卒業後、自動車関連の会社に正社員として就職した。
バブル絶頂期だった22歳の時に高校のクラスメイトだった恭子さんと結婚し、長男、長女、次女の3人の子どもにも恵まれた。そして27歳の時に家族で暮らすマンションを購入した。夏休みや正月休みなどには毎年必ず、子どもたちが望む観光地へ旅行に行き、思い描いていた生活を送っていたという。
当時は毎年、基本給もボーナスも上がり続けていた。清さんは当時について「結婚したときは景気がよくて給料がどんどん上がっていく時代で、先は心配していなかった」と振り返る。
しかしその生活は長くは続かなかった。日本経済が低成長の時代に入るなか、給料が伸びなくなったのだ。
清さんは30代の半ばごろから基本給が上がらなくなった。入社当時から給与明細をすべて保管していた清さん。かつてと今の給与明細を見せてもらうと、基本給はこの20年で5万円しか上がっていない。
恭子さんは「当時、夫の給与は上がる一方しか考えていなかった。まさか上がらないなんて想像もしていなかったですね」と、明細を見比べて、ため息をついた。
それでも、清さんは業績によって成果給を得られる営業部に自ら希望して異動し、多い時には年収が700万円あった。少しでも多く稼いで住宅ローンの返済や子どもの教育費に充てようという思いからだった。帰りは深夜になることも多く激務の日々だったが、家族のために「もっと稼がないといけない」と、仕事に勤しんだという。
45歳の時、胃がんが見つかる
しかし、45歳の時、予想外の出来事が小沢さん一家を襲う。大黒柱の清さんに胃がんが見つかったのだ。当時の心境について恭子さんは「子どももまだ高校生で本当にどうしようかと思った」と話す。
幸い早期の発見で治療は成功し、完治したものの、体への負担の面もあり、営業部から社内での事務仕事に異動を余儀なくされた。そこで、ボディブローのように効いてきたのが、基本給がほとんど上がっていなかった現実だった。
成果給がなくなった分、給与が少なくなるのは当然との覚悟はあったものの、想像以上に年収は大きく減少。毎月の手取り額は半減し、年収は500万円台まで落ち込んだ。
勤続37年になる清さんの現在の月の手取り額を見せてもらうと23万円。ボーナス込みの年収は約500万円。派遣社員として働く恭子さんの年収約250万円と合わせて約750万円の世帯年収で家計をやりくりしていた。