2019年12月01日

日本人はどんどん貧困になっている…「平成の消費」から見えたこと

「消費社会」は終わったか?
くり返し語られていることだが、「平成」の終わりに大きな意味をみることは、禁物である。それは複雑化した社会に、過度に単純なイメージを与えることになりかねない。

ただし「消費」ということからみれば、平成という枠組みには、一定の意義も認められる。この30年あまりの年月は、消費が私たちにとってどれほど大きな力を持っているかを、よく教えてくれたからである。

バブル期のような華やかな消費がみられなくなった平成以降の社会を、「ポスト消費社会」と呼ぶ者(たとえば上野千鶴子・辻井喬『ポスト消費社会のゆくえ』(平成20(2008))もいる。

しかしそれは「消費社会」の大きさを甘く見積もるか、あえて矮小な意味を与えそれをやりすごそうとするものというしかない。

私たちは、楽しみや気晴らしのためだけではなく、そもそも生きていくために、たくさんのモノやサービスを買わなければならない。そのせいで大多数の者は、嫌な仕事を辞められず、上司や得意先、親や配偶者のいうことに渋々でも従う。

こうして消費が結節点となり、私たちの生活を縛る社会を「消費社会」と呼ぶならば、この平成の期間で「消費社会」は力を弱めたどころか、よりいっそう生活を強く囲い込んでいるようにみえるのである。

消費の沈滞
もちろん「消費社会」に、まったく変化がなかったわけではない。平成の時代、「消費社会」は不況という最大の試練を被った。

振り返ってみれば、平成はバブルの絶頂とその崩壊からスタートする。

平成元(1989)年の12月29日、最高値の3万8915円をつけた日経平均株価は、それをピークに暴落し、以降30年近くのあいだで、かつての3分の2の水準にさえ達していない。

このバブル崩壊の過程であきらかになったのは、戦後社会を牽引してきた「理想」や「理念」の縮小である。

たとえば非正規労働の増大や、未婚率の上昇に伴い、男性雇用者を中心とした家族という「理想」は、実現がますますむずかしくなる。家族をつくり、それなりに安定した生活を送ることは、平凡な夢どころか、恵まれた人の贅沢になったのである。

他方、「消費」に関連しては、「豊かさ」という「理想」が崩れたことが大きかった。消費水準指数(二人以上の世帯、世帯人員分布調整済み、平成22(2010)年を100とする)をみれば、バブル崩壊後、消費支出は低落の一途をたどったのである。


こうした下降のトレンドから、いつかは誰もが平等に「豊か」になれるという「戦後」的な夢が解体されたと解釈する者もいる。

実際、山田昌弘『希望格差社会』(平成16(2004))や橘木俊詔『格差社会―何が問題なのか』(平成18(2006))をきっかけに「格差社会」が流行りの言葉になり、豊かな社会とそうでない社会に断絶が拡がっているという声も大きくなった。

デフレのゲーム
ただし現在の水準から振り返れば、そうした指摘には限界もみられる。第一に、「格差」の拡大をどこまで事実として確認できるかは微妙だからである。

社会の不平等さを示す「ジニ係数」は、たしかに平成のあいだ上昇を続けた。

しかしこれは現役を退いた高齢世帯が増加したことの影響が大きく、実際、年金や税などの再配分が行われた後のジニ係数をみれば、平成11(1999)年以降は基本的に低下し、現在はほぼ平成初め頃の水準にまで回復している。


この意味では近年、格差が増大しているとまではいえない。むしろ確認されるのは「貧富」の差の拡大という以上に、たんなる「貧しさ」の増加である。

事実、全世帯の所得の中央値の半分にみたない世帯の割合を示す「相対的貧困率」は、上昇のトレンドを描いている。こうして貧困層が増える傍らで、富裕層はあまり増加せず、それが格差の拡大を抑えたと考えられる。

つまり平成の時代には「貧者」の数が相対的に増加し、貧困は私たちの「他者」ではなくなったのである。

それとも関係するが、第二に「格差社会論」は、格差を固定したものとして捉えることで問題がある。不況や貧困の拡大によって、消費はたしかに減退した。

とくに被服費や外食費は大きく減り、平成2(1990)年から平成27(2015)年までで、前者は192.4から95.8へ、後者を含む食費は118.5から100.6まで減少している(家計調査、平成22(2010)年を100とする)。

ただしそれはあくまで価格をベースとした「総計」からみた話で、かならずしも人びとが消費を止めたわけではない。

むしろ平成社会には、デフレ的消費が真っ盛りとなる。

マクドナルドが平成12(2000)年にハンバーガーを65円に値下げし、翌年、吉野家が牛丼を400円から280円に値下げしたことを代表に、外食産業では価格競争が過熱する。

またユニクロが平成10年代なかば以降、店舗数を急増させ、さらに平成20年代にはH&MやForever 21といった海外チェーン店の進出がみられるなど、安価なファストファッションも定着した。

そうした店は、ややもすると消費から除外される人びとを補い、「消費社会」の住人になることを保証した点で大きな役割をはたした。

バブル崩壊後に一世風靡する100円ショップを代表に、デフレ的ショップは、この社会のほとんどの人が「消費社会」に参加しているという幻想を担保する貴重なインフラになったのである。

ただし誤解してはならないが、かならずしも貧しい者だけが、そうした店の客になったわけではない。デフレ的ショップでの買い物は、時と場合に応じそこで買う比較的裕福な人を含め、社会のより一般的なブームになった。

ではなぜ人びとは、そうした店で買物をしていったのか。

それを理解する上でキーになるのが、かつてジャン・ボードリヤールが分析していたように消費が、何かを表現するコミュニケーションとして働くことである。

消費は、自分のセンスや出身階層や貧富を伝える機会にもたしかになる。だがそれに加えてデフレ・ショップで買うことは、自分が商品を吟味し、無駄なものに金を使わない「賢い」消費者であることをよく表現する。

これは、「消費社会」で核心的な役割をはたす。いいなりになって買う「愚かな」消費者ではないことを証明する、それは格好の手段になるからである。

この意味ではデフレ・ショップでの消費は、対立しているようにみえて、ブランド品を買うこととむしろ連続している。

たとえばiPhoneを買うことで、私たちは自分が、アップルの歴史やセンスを「正当」に評価でき、それゆえ安物を買いで銭を失わない、「賢い」消費者であることを主張する。

デフレ的ショップで買う者や、ブランド品の消費者が、主観的には「価値のわからない者」、「信者」として侮蔑しあっていたとしても、この局面では隣り合わせで生きている。

両者は、同じ土俵の上でどちらがより優れた消費者であるかを競い合うゲームを続けているのである。

古市憲寿は『絶望の国の幸福な若者たち』(平成23(2011))で、不況期にも若者が意外に幸福感を示していることを指摘していた。その幸福感は、こうしたゲームの拡大によって支えられていた節がある。

かつての若者が意味のある買い物に熱心だったのと似て、デフレ期の若者たちは、安い商品をより「賢く」買うという消費のゲームに興じていく。

それが場合によっては、相当の貧困に陥っている者にさえ、富裕な者と「平等」に生きているという(誤った?)リアリティに、それなりの実感を保証してきたのである。

この意味で平成の30年あまりの年月は、階層的に、また商品の価格的に消費のゲームの可能性を広げたということができる。

贅沢なブランド品の消費とは別の経路で、デフレ的商品の消費は、自分がシステムにただ従う愚かな主体ではないことを主張する手段になる。

もちろんこうした主観的な解放が、しばしば客観的にはシステムへのより深い従属の契機として働いていることも、見逃してはならないのだが。

消費を拒否する消費
この意味で平成10年代なかば以降に注目された「格差」とは、消費のゲームの「多様性」の拡大を少なくとも一部には意味していたといえる。

ただし消費は、たんに多様になったわけではない。平成の時代に特徴的なのは、消費自身を拒否し否定する、ラディカルな消費の形式まで流行していくことである。

その最右翼に、「清貧の思想」(中野孝次、平成4(1992))や、モノをなるべく持たないミニマリストへの共感というかたちで表明された買うことの拒否がある。

こうした消費の拒否は、ひとつにはデフレのなかでもモノが満足に買えないことを正当化するために、他方ではそれとは逆だが、消費漬けの社会に暮らすことのいわば免罪符――最近では「片づけの魔法」がその役割をはたしている――としてもてはやされてきたのである。

それを弱め、より大衆化した場所に、消費にこれまで含まれなかった(とされる)社会的役割を重視する見方が現れる。

「エシカルな消費」、または関係づくりを主眼とした「第四の消費」や、消費を媒介に地方と関わりを夢みる「関係人口」への信奉がそれで、モノの有用性の獲得やみせびらかしといった目的が否定され、望ましい関係づくりに役立つことが、消費に求められる。

ただしこうした主張が、より一般的な購買活動のどれほど対岸にあるかは、本当は疑わしい。それは、モノを買うことに社会的な意味や価値が関係していることを求める。

しかし消費のシステムにだまされない「賢い」主体であることを追求するという点では、それらも100円ショップでモノを買い漁ることや、ブランド品を愛でることと同じく、現れては消えるこの社会のモードのひとつというしかないからである。

「無料」の消費、サブスク型消費
消費を否定する試みとして平成社会により大きな影響を及ぼしたのは、むしろ情報環境の高進と低廉化である。

ヒットした『フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(平成21(2009))は、情報を中心とした多くの財が、ほとんどお金を払わずに利用可能になっている社会の状況をあらためて浮き彫りにした。

YouTubeやInstagram、基本無料のスマホゲームなど、品質の善し悪しは別として、たしかに大量の情報に私たちは無料で触れられようになっている。

さらに近年では情報財だけではなく、衣服や車、家具などを安価に「利用」できるサブスクリプション型のサービスも注目を集めている。

定額制をうたい、なるべく個々に支払う機会を減らすことで、面倒な消費の「労力」を省くことが試みられているのである。

これらは、形式的にみれば、たしかに消費とは呼びにくい。それは、代償としてのお金を少なくとも表面的には介在させず、また考えて買うことを「面倒」とみなし、企業やそのなかのAIにできるだけ任せようとするものだからである。

ただし他方でそれらがいずれも、金を最大限かけずに財を手に入れることを競わせる、デフレ型消費のゲームの延長線上に花開いていることも見逃してはならない。

私たちはここ数十年、より「賢い」消費者になるよう追い立てられてきた。高く、無意味な商品を買う愚かな消費者に留まらないことが、貧富の差や年齢、性差を超えて、しばしば追求されてきたのである。

その競争の拡大に呼応して、ジャンクのような情報「財」や、消費の「労力」を省くサービスも積み上げられてきた。

無料で、またはより生活が楽にできるように先回りして運ばれてくる財を利用することで、誰よりも「消費社会」を自由に生きていることをみせつける逆説的な競争が続けられているのである。

平成後の「消費社会」はどうなるのか?
以上のように、平成の歴史を振り返ると浮かび上がってくるのは、私たちを絶え間なく消費のゲームへと駆り立ててきた奇妙な熱量の大きさである。

ミニマリストや「エシカル」な消費といった自己否定的形式さえ流行させながら、平成社会は多くの人びとを消費の渦のなかに巻き込んできた。

その一因となるのが、IT技術の革新や、グローバル化に支えられた商品市場のさらなる産業化である。

ファストファッションやプチプラコスメ、牛丼やハンバーガーなど、安価でほどほど質が良い商品が大量に供給され、短期的に入れ替わっていく。

それは、比較的豊かでない人も消費の渦に巻き込み、さらには裕福な人が、消費にあまりこだわっていないことをみせかける、一周回ってクールな選択肢を供給してきた。

では、こうして続けられてきた消費のゲームに、本当に終わりはないのだろうか。

たとえばネットがますます拡大するならば、いずれ消費のゲームを屈服させ、たんなる亜種におさまらないコミュニケーションの領域――たとえば各人の名声を中心に動く「評価経済」といったかたちで――が脹らむ可能性も考えられる。

ただしそれに期待するのは、早計である。そもそも消費がコミュニケーションの手段として重宝されてきたのは、それが求める代償の大きさと深くかかわってきたからである。

消費には金が必要とされ、その金を得るために働き、または親や夫のいうことを聞くことが求められる。それがわずらわしいから、せめて物を買う場合には、システムの言いなりにならない「本当の自分(自由な消費者)」であることが誇示される。

ではネットは同じほどの切実さで、私たちと関係するのだろうか。

なるほど独裁国家でのようにネットから匿名性が失われ、発言が大きな代償を払うものになれば、コミュニケーションの「価値」はより大きくなるかもしれない。

ただしそうした社会はなお日本では実現していないし、その到来が望ましものとも到底思えない。

いずれにしても、先のことは分からないが、元号が変わるぐらいでは、平成を席巻した消費のゲームが終わりそうにないことは確かである。

もし真のあたらしい時代が来るとすれば、それは、私たちを駆り立てきた消費のゲームの可能性や限界が具体的に検証され、それを更新する道がより切実に求められるときなのである。
posted by РМН at 21:00| Comment(0) | 某掲示板より転載3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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