2021年01月06日

感謝の気持ち胸に疾走したい 原発事故で避難生活続く福島・浪江町

【東北を駆ける】福島・浪江町の聖火ランナー 池田泉さん(48)

 東京電力福島第1原発事故の影響で、町民の多くが今も避難生活を続ける福島県浪江町。東日本大震災から10年を迎える今年3月、聖火ランナーとして故郷を駆け抜ける日が近づいている。東京五輪の大会組織委員会は、延期前に決まっていた聖火ランナーは希望すれば今年も走ることが可能としており、現在は正式決定を待っている。

 聖火ランナーには県の公募で選ばれた。応募の動機は「浪江町を忘れてほしくない」から。生まれ育った浪江町は原発事故後、全域に出た避難指示が平成29年3月まで続いた。避難指示継続地域は今も残り、町民約1万7千人のうち町内居住者は約1500人。「浪江町は負けないという思いも伝えたい」と意気込む。

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 高校教諭として、いわき総合で教鞭(きょうべん)を執る。担当は保健体育。東京五輪で復活するソフトボールの指導に力を注いでいる。野球好きの父、幸雄さんの影響で小学4年から始め、浪江高校3年時に県高校選抜に入り国体に出場。準優勝したチームの一員として活躍した。しかし、原発事故から2年後の25年4月、幸雄さんは72歳で他界。震災関連死だった。


 震災発生当時の勤務先は母校の浪江高。ソフトボール部の監督として多忙な日々を過ごす中、職員室にいた際に長く激しい揺れに襲われた。「ロッカーがバタバタ倒れた。最後の揺れが大きく海側に引っ張られる感じだった」。当日は生徒の安否確認に追われた。震災による津波で、親戚や教え子を失った。

 原発事故後はみんなバラバラになった。「ほとんどの生徒が避難先を転々として、みんな疲労困憊(こんぱい)していた」。それでも、23年5月の学校再開後、部員たちはソフトボールをやりたいと訴えた。同月、二本松市にできた浪江高のサテライト校に通う部員で練習を始めた。

 当時、自身の住居はいわき市。毎朝100キロ以上離れた学校に出勤し、部活後は部員を送ってから帰宅する日々を過ごした。「会津方面の部員は部活後のスクールバスがなく、猪苗代町あたりまで自分が送って保護者に届けた。毎日4〜5時間は運転していた」と振り返る。

 努力は実り、23年7月の大会では1回戦で延長サヨナラ勝ちを収めた。が、結局は生徒減少などで休部になった。

 さまざまな経験を重ねたソフトボールへの思いは強く、髪形にもこだわりがある。きっかけは被災の1年後に「浪江高ソフト部が復活し、再び子供たちとソフトボールをやれる日まで変わらずにいようと決めた」ことだった。それ以来、同じショートカットにしている。

 しかし、浪江高は29年3月末で休校。「もう願いはかなわないが、もっと生徒たちに何かしてやれたのではないかと、ふがいなさを感じている。自分への戒めとして同じ髪形は続けている」という。


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 聖火ランナーとして故郷を疾走する日を待ちわびる中で、複雑な思いも芽生えている。「コロナ禍でやっていいのかと思う。無理することではない。震災を経験して命の大切さを考えるようになった」。新型コロナウイルスの感染収束を心から願っている。

 ただ、走れるならば、自らが発したいメッセージはいろいろある。「浪江町は復興が進む一方で、昔の風景が消え寂しさや切なさを感じる。これもバネにしたい」と話し、「『浪江に帰りたい』と訴え続け、避難先で亡くなった父に『戻ってきたよ』と話しかけたい」と力を込める。

 聖火ランナーとして一番届けたいのは、教え子たちへの感謝の気持ちだ。

 「子供たちに元気をもらって今の自分がある。教師の仕事は『心』が相手。生徒と一緒に自分も成長していること、勤務する学校や時代が変わっても自分は変わらないことを伝えたい」(芹沢伸生)



【池田泉(いけだ・いずみ)】 昭和47年10月、福島県浪江町生まれ。ソフトボールのポジションは遊撃で打順は1番。監督としては盗塁など機動力をいかした戦術を好む。ドライブ好きで、新車で買ったSUV車には40万キロ以上乗ったという。福島県いわき市在住。
posted by РМН at 21:00| Comment(0) | 財政破綻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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