「鉄の街」、岩手県釜石市。最盛期から東日本大震災を経て今に至る半世紀にわたって、町の盛衰と人の営みを撮り続けてきた「街の写真屋」が亡くなった。菊地信平さん、享年75。体調を崩し、県立病院に入院して3日後の3月2日朝に逝った。
「知らないうちにリンパ腫が全身に転移していたのね。私は『退院したら、一緒にドライブに行こうね』と、声を掛け続けることしかできなかった」。妻の由紀子さんは、訃報を伝える電話口で言った。
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米英連合艦隊の艦砲射撃で焦土と化した釜石の焼け野原に、信平さんの父、信一さん(享年88)が2階屋を建て、「菊地写真館」の看板を掲げたのは終戦から数年後。ほどなく信平さんが産声を上げた。
地元の高校を出て東京の写真専門学校に進学し、卒業後に都内の写真館で5年間修業。修業中に結ばれた妻と乳飲み子の長男を伴い、20代後半で釜石に戻った。ボタンダウンとジーンズにサンダルは、当時から貫いたスタイルだ。
ひょうひょうとした性格で、地位や学歴はどこ吹く風と、分け隔てなく人に接した。写真には、人のぬくもりが伝わるようなまなざしがあった。「オヤジは、写真を作り込もうとしなかった。いつの間にか、被写体の方からやって来る。NHK『鶴瓶の家族に乾杯』で、笑福亭鶴瓶さんにみんなが心を開く感じです」。跡継ぎの長男、圭太さん(49)はそう言って、「ほめ過ぎかな」と言葉を足した。
事務や経理は苦手で妻子任せだが、常にカメラを手に人々の日常を写真に収め、プレゼントしてきた。
写真をもらった人は数知れず。漁師はお礼に魚介類を持参し、農家は野菜を抱えてやって来た。結果、「結婚式に七五三に米寿祝い。全て世話になった」というお得意さんもついた。
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撮りためたネガや写真データを一度に失ったのは、2011年3月11日の東日本大震災だった。
地震発生時、競馬好きの信平さんは市内の場外馬券販売所にいた。車で戻り、路上にいたご近所さんを撮影した直後の午後3時22分、津波が町を襲った。
波に追いかけられる長女の夏子さん(当時28歳)にもカメラを向けた。被災者が所狭しと横たわる体育館や、トラックに乗って避難してきた子どもたちの姿も写真に収めた。
震災の写真展やイベントには無料で写真を提供することが多かった。「欲がなさすぎ」と家族から苦言があった。写真集の出版話もあったが、「いらない」と一蹴した。
本人への取材もあった。「被災地を取り続ける意味は?」「カメラを向けることへの抵抗は?」と問われ、「考えたことがない」とかみ合わなかった。写真屋として当然のこととの思いがあった。
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体に変調をきたしたのは亡くなるひと月前に行われた津波避難啓発行事「新春韋駄天(いだてん)競走」の撮影中だった。「構図がいまひとつで、しゃがむと立ち上がれなかった」。次男の圭介さん(47)は振り返る。2月半ば、暖房の前で横になる回数が増えた。
3月5日に営まれた葬儀には200人近くがやって来た。コロナ禍の影響もあり、「こんなに集まったのは久しぶりです」と葬儀屋が舌を巻いた。
「仙人みたいな人だった」。葬儀に参列した友人の言葉に、スズメと戯れる信平さんの姿を思い出した。
震災後、信平さんは写真館の前に毎日米粒を置き、スズメと「懇意」になった。信平さんの時だけ足元で群れ遊び、ある日、5円玉置いて飛び去った。これを聞きつけた知人たちは、「スズメの恩返し」と呼んだ。信平さんの顔に、仙人が重なった。
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私は震災後に釜石に入り、1年にわたって取材した。信平さんには、何かにつけて世話になった。葬儀には参列できなかったが、初盆の今夏は、「甘党」の信平さんが好きだった回転焼を手に墓参りにうかがうつもりだ。
イカ釣りが趣味で、亡くなるひと月ほど前には100杯以上も釣り上げ、あちこちに配った。
写真館2階の祭壇の遺影の傍らには、家族がこっそり注文していた紫色の頭巾とチャンチャンコが供えてある。葬式当日に宅配便で届いた。数えで喜寿を迎える誕生日の19日前の、早すぎる旅立ちだった。